日本国外の翻訳エージェントから送られてくる仕事依頼メールにはこんな風に書かれている。「翻訳言語:DE, ES, IT, CHS, CHT, JP, KO」おおもとのクライアントから翻訳先言語として指定された言語だ。これを見ると、「日本語が選ばれたのだな」と感じる。
選ばれた、ということは翻訳というプロジェクトにお金を出す企業や団体が「日本語に翻訳することでリターンを得られる」あるいは「日本語にしなければリターンが得られない」と判断している、ということだ。
世界には7千以上もの言語があるそうだが、その中から翻訳先言語として日本語が選ばれたとも言える。よく考えたらものすごいことなのではないだろうか。
世界の国々には、土着の言語だけでは経済が回っていかない国もある。そういう社会で稼いでいくためには、英語や元植民地宗主国の言語教育を幼いころから受ける必要があるだろう。日本はそうした状況とは違う。識字率が高いことも重要な要素としてあるが、ほとんどあらゆる学問を日本語で学ぶことができる。英語が公用語の職場も増えているとはいえ、日本語が分かれば就職もできるし、国内でかなりの地位につくことだって可能だろう。
「日本の文化人は、日本語だけできれば、ヨーロッパやアメリカで書かれたものもたくさん読めるし、情報から締め出されることはない。」と多和田葉子さんが『エクソフォニ―』の中で指摘している。外国語を無理に学ばずとも日本語で十分な情報を得られる環境があるというのは大きな恩恵だろう。逆に、国や地域によっては、土着の言語しか理解できなければ情報不足に陥ることもある。
何かが翻訳されるためにはそれを受け取るユーザーやリーダーの母体数が不可欠だ。人数だけでなく、プロジェクトによってはユーザー一人一人の経済力も大いに関係してくる。つまり翻訳者にとっては仕事の発生に関わるし、収入に影響が及ぶ。言語土壌が豊かであれば翻訳する価値があると判断されるだろうが、そうでなければ、仕事業務は発生しない。翻訳文がなければ内容を知ることはできないし、どうしても知りたければ原文や英語が読めなければならない。そうした社会では情報の格差が広まるばかりだ。
だからこそ、日本語を母語として翻訳という仕事ができている自分は、相対的に見ればすごくラッキーなのではと思えてくる。母語は自分で選べない。物心ついたときにはその言語で話し、聞き、文字を覚えていった。母語をターゲット言語として翻訳するだけではなく、後天的に覚えた言語に訳すこともあるので、ネイティブでなかったら終わり、というわけではない。とはいえ、やはり「母語に訳す」というのが主流だ。
稼げるということと優れた翻訳者であることは、関連性はありつつも完全に一致するものではない。翻訳者として、たまたま良い条件で仕事がもらえたとしても、それは自分の翻訳能力が高いからだけではないし、逆に条件が悪かったとしても、翻訳者の能力と市場価値が完全に比例するわけでもない。
ある言語を別の言語に訳すとき、ターゲット言語が使われる地域や国の経済力や文化水準といった要素が市場の中に放り込まれ、翻訳者個人の力量とは一切関係ない部分で、発生する仕事の量や対価が決められてしまうことがある。そんな不条理な世界の中で、自分を信じ能力を最大化しようとしながら、しなやかに泳いでいかなくてはならない。スキルアップをすることと同じくらいに、自分の立ち位置を相対的に見ることが鍵となる。そんなことを考えつつ、自分にとってちょうどいい場所を見つけていきたい、と思っている。
引用文献
多和田葉子『エクソフォニ―――母語の外へ出る旅』岩波現代文庫 2012年 p.120
